齋藤雅男講演会抄録

 鉄研三田会では2000年4月15日、鉄道ジャーナル誌の「鉄道とともに50年」でもおなじみの齋藤雅男先生を招いて講演会を開催しました。
 台湾の新幹線を日本企業連合が受注するまでのドラマを中心に、齋藤先生ならではのお話の抄録です。





電車屋、運転屋になるまで

 戦後、大阪で電車の復旧計画などやった。当時の電車はひどいもので、ギヤカバーなし、潤滑もしていないなど、とにかくめちゃくちゃだった。
 その他にもさまざまな職場でいろいろな出来事がたくさんあったが、鉄道が好きだということでなんとかやっていた。
 昭和28年、多くの職場を渡り歩いた経験を買われて客貨車を担当することになった。当時は機関車に携わる者が本流で、客貨車では出世できないと思った。客貨車課では電車も見ていたが、昭和30年代、電車の時代になってきた。
 しかし当時電車の立場は弱く、一例を挙げれば運転手のなり手がいなかった。電車の運転手はランクが低く賃金も安かったので、SLからELに移ることはあったが、電車に来る人はいなかった。
 しかしこだまが成功して、新幹線の時代になるとELの人は仕事が無くなってしまった。立場の弱い電車屋だった私は新幹線の運転システムを作ったという経験で世界に認められるようになった。人生とは面白いものだ。

台湾新幹線の話

 李登輝は政治家ではなく学者だった。ジワジワと民主化を進め、その中で鉄道についても近代化が進められ、1988年、台北駅がビルになった。1989年、台湾の新幹線の計画が持ち上がり、李登輝総統と会談した。
 しかし日本の商社が台湾に乗り込んだ時には、すでにフランスが台湾に入り込んでいた。以降、フランスの強引なやり口にてこずることになる。
 高速鉄道準備局が台北駅の3階にできた。1990日独仏の三カ国が呼ばれて1時間ずつオリエンテーションをやった。ドイツはICEもできていなかったので夢のような話をしていた。
 1991年、高速鉄道のシステムデザイン案を各国共同で提出。5〜8月、台湾が知識を得るためのオリエンテーション。フランスが主導権を握っており、デザイン案作成のための予算割りも決まっていて、フランス70%、日独15%ずつだった。フランスの売り込みは激しかった。ビルに入ればTGVの写真だらけ。模型も用意していた。
 フランスに入れ知恵された台湾に説明、説得するのは大変だった。また、英語で提出した資料(問答)が正しく台湾語や北京語に訳されていないのも問題だった。訳者が鉄道の知識がまったく無かったからだ。
 日本にはフランスにはないノウハウをたくさん持っていた。例えばバラスト。日本の石はすぐ欠ける。新幹線で350mmのバラストが100mmになっていたこともある(残りの250mmは砂のようなもの)。台湾の石も同じだった。日本にはこれを克服するノウハウがある。
 特に主張したのはたとえば以下のような点。
 フランスが主導権を握っていたが、フランスはほとんどなにもやらずに、最後のレポートもほとんど日本が作成した原稿の新幹線の絵をTGVに置き換えただけだった。

 1992〜1995は台湾国内でいろいろとあって空回りしたが1996年10月に再開。300系を元に膨大な量の基本スペックを作成した。
 台湾側の条件は、台北、台中、高雄1ストップ90分運転、300km/h、3分間隔、1編成800人であった。
 仏独は800人をクリアするため、2階建てで増車。フランス製の機関車では出力が足りないのでドイツ製としたり、加減速性能が悪いために退避施設に膨大な土地と設備を要する(ヨーロッパでは3分間隔などという運転は存在せず、待避も無いので問題にならないのだ)など無理のあるスペックであったが、交渉力があり有利に話を進めていた。
 1997年3月にスペック完成。応札したのは日本と独仏グループ。
 1997年9月1日から20日まで、台北のホテルに台湾、日本、フランスの担当者が缶詰めになって台湾からの質疑に応じ、25日審査会があった。20時に発表があり、日本惨敗。
 スペックでは圧倒的に日本有利と思われたが、資料の不備(資料を作ったのが商社、メーカーだった)や説明下手が重なり、結局採点はイーブン。金額では20%ほど高く、融資条件も悪かったため、仏独に傾いた。
 1997年12月から今まで商社、メーカーが中心であったメンバーに鉄道の専門家を加えて巻き返しを図った。フランスの弱点を突く戦法であったが、仏独も激しく応戦してきた。例えばフランスの客車とドイツの機関車の組み合わせの実績の無さを突くと、1998年5月、仏独が台湾のメンバーを招待し、ドイツの機関車にフランスの客車で300km/hのデモ走行を行なうといった具合。
 そんなとき、6月3日にICEが事故。台湾は原因と対策の提出を求めたが、ドイツからは返答が無かった。
 1999年5月、高速鉄道準備局から発展した台湾高速鉄道のトップが極秘に日本を訪問。この辺から日本が優勢に。
 7月31日、台湾高速鉄道の会長が辞任を表明。8月13日、李登輝に呼ばれた。李登輝、台湾高速鉄道、日本の三者会談であった。会長が辞任を表明したのは台湾国内で資金調達が困難であったため。銀行も仏独ではうまくいかない(技術的、金額的に)と分かっていたので資金を出さなかったのだ。
 そこで、李登輝が資金調達を約束。あとは一度仏独に決まった話をいかに覆すか問題となったその時、台湾大地震が発生。台湾の世論が日本を向いたのであった!。
 12月28日に日本に第一交渉権が与えられる。2000年4月12日鍬入式。
 これが日本が台湾新幹線を受注するまでの一部始終である。
[2000.04.15]

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